もう50年ほど前から管理人の脳内に住み着いてるキャラクターの、稚拙な妄想小説のお披露目場です。
ご笑覧下されば幸いです。

・時系列に置いてあります。
・但し最新作は先頭に。
・中断&書きかけ御容赦。
・感想&ツッコミコメントは「田毎の月」へでもこちらへ直接でもOKです~vもちろんメールでも。

次の日。

朝ご飯はその日に出来ているであろう納豆をおかずにする予定だったので、まだ布団から出るか出ないかという時間に幸がやって来た。

「おはようございます」

いつもなら、私を起こさないようにそろそろと雨戸を開けるんだけど(勝手口も玄関もつっかえ棒で開かないようにしてある)、今日はさすがに私等を起こす勢いで来たな。
だって、楽しみだもんねー納豆!

「おはよ」

寝床の中でうーん、と伸びをする間に、幸はガラガラと縁側の雨戸を全て開け放ち、斎藤さんは寝間着のまま濯ぎを使いに井戸の方へ降りて行った。
昨夜は寝れましたか?とかなんとか二人のやり取りが聞こえているけど、外からの風が寒過ぎてフクチョーと一緒に布団から出れずに居た。

「さあて、どうなってるかなー納豆!」

ひたひたと畳を踏んで、幸の裸足(!)が納戸へ向かう。
すると、やっぱり好奇心には勝てなくて。

「待ってぇ!私も見る~」

引っ張りを羽織り、首巻きにしていた手拭を襟元に押し込め、足袋を履いて(この寒いのに裸足ってオカシくね?)幸を追いかけて納戸へ入る。

「ちょっと心配だったんだよねー。行火の加減がさー・・・」

彼女は既に、行火を夏用の肌布団で覆っただけの急拵えの納豆室を開けにかかって居た。
手元を覗きこむ。
油紙に包まれた納豆苞の束。
おお、匂うぞ!これこそ・・・。

ん?

「くっさー!!」

納豆のニオイってこんなだっけ?

「なにこのニオイ!」

戦慄の臭気!(爆)。
まさか!
と思ったタイミングで幸が油紙を開けた。

藁苞が何やら白や緑のまだら模様・・・って、カビ?!!

「「ぎゃー!」」

二人一緒に叫んで、その勢いで油紙を持つ幸の手が揺れ、汁がダラッと・・・床に垂れた!

「うわっ!腐ってる!」

「イヤーッ!やだちょっと汚なっ!くっさ!」

「くっさー!小夜アンタ早く私の鼻つまんで。逃げるなってば!」(←腐った納豆の束の包みを両手で持ってるので自分の鼻をつまめない)。

「やだやだ臭い!汚い!ぎぇー!」(←既に逃げてる薄情者)。

・・・阿鼻叫喚。

余りの臭さに寝床に潜ってたフクチョーまでもが庭に逃げ出す始末。
その後の修羅場(処理&掃除)も半端じゃ無かったけど、それは想像にお任せして・・・。



梅干しと塩昆布で朝食を済ますまで、お通夜みたいな空気だったな(--;
大騒ぎの後の脱力感で。
正直、その日のエネルギーは全部使い果たした感じで。

何より、幸が深く静かに落ち込んでいて。

「なんでだー。温度も湿度も悪くなかったと思うんだけどなー」

とかぶつぶつ言った最後に、はあー、と大きな溜息をついて、

「でも、沖田先生に言わないでて良かったー。言ってたらがっかりさせるとこだった」

と言ったので。

ハタと気が付いたんだ、沖田さんに食べさせたいのか!って(←やっぱりニブイ人)。
それで沖田さんが少しでも元気になるなら、それが幸のためにもなるなら、

「そっか!ヨシ、今度は真面目にやろ!」



納豆は三度目に成功した。
稲藁を熱湯で煮て消毒して、雑菌を殺して。
二度目は念入りに煮過ぎて納豆菌が死んじゃったのか、二日経っても煮豆のまま(^^;
湿気でびしゃびしゃになっているのに幸が気付いて、もしや問題なのは通気性か?と油紙に包むのをやめたら、なんとか納豆らしい物が出来たのだった。

が。

斎藤さんは食べずに行っちゃった。


あれから三日日ほど後の冷え込みの厳しい晴れた朝、彼は私の家から出かけて行った。



そう、あれから。

家に在った旧式の拳銃(って言うより鉄砲って感じの)を使って、砲術?の基礎を順序立てて教えてくれてて。
まだ全部教わるには程遠かったんだけど。
まあ、基本的な銃の仕組みはなんとか判ったかな?

実弾練習には弾が無かったので二発しか撃ってないけど。
土嚢で的を作って。

そういえば何故かその前にキャッチボールさせられたんだ。
幸が言い出して。彼女のアイディアで。
端切れで球作って久しぶりにね。
家の前の細い路地で小一時間、幸を相手にボール投げして、その後に拳銃で的を狙ったらナント!2発目には的の真ん中当たったの!何それ?何効果?アタシ天才?

・・・まあ、的まで4、5メートルしか離れてなかったんだけどね(^^;
護身用の銃だしそんなもんか。


幸には防具を持って来させて、何度か剣術の稽古つけてた。
ウチの庭でね。ほとんど寒稽古(笑)。
ちゃんと竹刀を持っての稽古はだいぶ久しぶりだったみたいで、幸も嬉しそうだったな。
普段はウエイトトレーニングぐらいしか出来ないからなぁ。素振りとかね。
それもこのところの沖田さんの看病(の手伝い)でほとんど出来なくなってたし。

見てるこっちは幸が怪我しやしないかとハラハラしたけど。
狭い庭だし障害物も多いんで。
でも意外と大丈夫だったな。
斎藤さんが加減したのかな?


朝、幸が出勤(笑)して来たら三人で朝食にして。
その後、幸の朝錬。
その間私は掃除洗濯等々。
終わると順番に風呂を使って。
昼食。
午後、私が銃の講義を受けてる間に幸が食料の買い出しに行って。
帰ってきたらオヤツして。
それが終わったら夕飯の準備して。
日が短いからね。
夕飯を食べ終わって片付けも済むと日没って感じだった。

幸が居る間は大人しくしてたけど、そうじゃなければ斎藤さんにも家事を手伝わせてました。
普通に。

鰹節削りは上手くなったよ(笑)。
洗濯物畳むのは私より上手い(それは最初から)。
布団を敷くのも。
ピッシリ物差しで測ったみたいに左右対称じゃないと気が済まないの。
あと、火鉢の炭の継ぎ方とか。毎回同じような形に揃える。
基本、几帳面な人だよね。

それと、寛ぐ時にはあまり正座はしなくなった。
ウチの猫にすっかり懐かれちゃってね。
斎藤さんが座ってるのを見つけると必ず膝に乗って、膝から懐に登って顎を肩に預けてベターっとくっついて居るようになった。
片手で茶碗酒しながら片手でフクチョーを抱いて、正座じゃ収まりが悪かったらしく胡坐をかくようになった。
柱に寄り掛かったりね。
ていうか、私にだってそんなにベッタリくっついたりしないのに、この猫ったら。



もしかしたら、こんな日々がもっとずっと、毎日続くような気がして来ていた二日目の夜。

「ああ固い。・・・痛っ・・無理っ。・・・ダメ。お願い」

「どれ・・・うむ、これは・・・。無理か・・っ」

「そもそも手じゃ無理だし。諦めた方が・・・」

と、延べた寝床の脇で夢中になってたら、突然、斎藤さんが動きを止めて縁側の方を睨むではないか。
それからそろそろと床の間の刀掛に後ずさろうとした時、庭で誰かがゴホゴホと咳払いをした。
間を空けずガラガラと雨戸が開いて、

「失礼するぞ」

そこまでされればそれが誰かは私にも判る。
そういう態度の意味だって。

誰に言ってんだオッサン!
咳払いって。
何か誤解してやしないか?
しかも・・・ナンカいやらしい方向にっ!

縁側の暗がりからからそろそろと?障子戸を開けたオッサンを、今度は私が睨む番。
湿っぽく凍てついた夜風に身震いしながら。

「何をしている」

私の手の中に有るものを見て(というより着物を着たままなのを見て?)相手は白々しく目を逸らした。

何だと思ったんだよっ。言ってみろ(--メ
と、問い詰めたかったけど、斎藤さんが目を瞑って小さく首を振って見せるので止め。

でもまあ、こんな調子で現れてくれたので、この間のギクシャクした空気を忘れて照れることも無く居れた、というのはあるけどね(お互い)。

「最新型の薬莢の中がどうなってるか開けてみようと思ったけど、固くて開かなかったのー。それが何か?」

座敷と居間に延べた寝床を隅に寄せて場所を開け、寝る前に補習授業みたいなことになってたんだよね。

懐紙の上には回収した使用済みの空薬莢が二つ。
金属薬莢を見るのは斎藤さんも今回が初めてと言うので、未使用のをひとつ犠牲にして分解してみようかということになり、弾と薬莢の接続面を手で開けようって・・・まあ無理な話なんだけど(^^;

私の返事を何気に無視して、オッサンは長火鉢の奥にドカリと腰を下ろし傍らに刀を置き、

「使い勝手はどうだ」

行灯の脇に座り直した斎藤さんに訊いた。
前屈みになり、火鉢の縁に置いた手をパーに広げて火にあたって居る。
白っぽい色の首巻きを顎下までしっかり巻いていたけど、剥き出しの耳は赤くなってた。

「撃った際の衝撃も反動も小さく、扱いはだいぶ楽かと。射程距離も威力も護身用としては充分ですし、慣れれば自在に使いこなせるでしょう」

ふん、と鼻で返事をする奴なんかもてなしたくは無いんだけど、斎藤さんがー。
目を閉じて、お茶でも出せって念を送って来てる(--)たぶん。



「悪いがもう待てぬ」

彼は自ら催促に来たんだった。

「聞いて居るか知れねぇが、島津の殿サンが大層な手勢を引き連れて都に御出ましだ。既に市中は島津の兵で溢れかえってる」

私は初めて聞いたけど。
斎藤さんは幸から聞いたりしてたのかな。

オッサンは淹れたばかりの熱い茶をひと啜りして、

「敵と味方が入り混じって暮らしてるような可笑しな具合さ。勝手に戦は出来んから抑えちゃ居るが、いつどのきっかけでドンパチ始まるか知れたものじゃねぇ。しかも」

喉が渇いてるのか、立て続けに何度か茶を啜る。
湯呑みを口元から離さないまま、

「どうやら毛利勢ももうすぐそこまで来ているという話。芸州勢もな」

ずずーっと啜って空になった湯呑みを、私の目の前、長火鉢の縁にトンと置いた。
つまり、お代わりを要求した。

「間が悪いことに明日明後日には、兵庫開港の御用向きで永井玄蕃頭様大坂御出張。新選組はその警護のため、この急場に人手を裂かねばならん」

それで人手が足りないから斎藤さんに早く現場復帰して欲しいということのようだ。

「大坂へは・・慶喜公も?」

斎藤さんがお茶に手もつけずに尋ねると、

「うむ・・・いや、この上あの御人が居なくなっちゃ終いなんだが」

と曖昧に(投げやりに?)苦笑し、

「まぁどの道、都が手薄になるのには変わらん。折悪しく、な。連中の狙いはそこなのだろうが・・・」

コポコポと湯呑みへお茶を注ぐ。
火鉢の上へ戻した鉄瓶がコォーと低く鳴ってて。

お茶の入った湯呑みを再び飲み手の前に戻すまで、たっぷり一分以上、沈黙が続いた。
長火鉢を挟んで二人、身じろぎもせず目を見交わしたまま。

ふと、行灯の灯りを映した斎藤さんの目が、ほんの僅か笑って、

「事が起こるとするなら今この時、ということですね」

「おそらく。故に、天満屋の件は早く決着を付けたい」

なるほど、と斎藤さんは頷き、

「どのような決着をお望みか」

と切り返した・・・んだよね?たぶん。
土方さんが湯呑みへ伸ばした手をふと止めて、斎藤さんの顔をまじまじと見たのでそれと判った。
それからニヤリと片頬で笑って、

「お前、何が言いたい?」

「今の今、御自分で仰ったばかりではありませんか。何がきっかけでドンパチ始まるか判らない、と」

指摘されて、お茶を飲みかけた土方さんが湯呑みを持ち上げたまま低く笑い出した。

「俺が何を企んだところで、そう上手く事は運ばん・・・とは、この何日かで判ったはず」

その笑いをお茶と一緒に飲み込む。

「余計なことは考えなくていい。三浦サンの護衛に集中してくれ。考えるのはこっちの仕事だ」

「そういうことなら気が楽です。承知しました」

二人のやり取りはいかにも落ち付いていて、言葉以上に以心伝心って感じで、聞いててなんだか安心したっけ。
いよいよ斎藤さんも新選組に復帰するんだなぁって思って。

なので私も何か応援できるかなぁと思って斎藤さんに言ったんだ。

「私、頑張ってお弁当作ってあげる。それ毎日お昼に持って行くから・・・」

そしたら皆まで言わないうちに横から全力で水を差された。

「あーあー、毎日通ってな。薩摩のイモ侍がゴロゴロしてる中をチャラチャラと、な。殺されてぇのかてめーは!」

って。
その上、

「コイツの泊まり込むのは料理宿だぜ?喰い物の心配なんざ余計なお世話だバカモノ。わざわざ笑い者になりに行くような真似はするな」

凹。

二杯目のお茶を(まだ結構熱かったと思うんだけど)ぐびぐびと飲み干し、立ち上がって出て行きながらブツブツと、

「てめーの作った訳の判らん弁当喰って腹痛でも起こしたらどうしてくれるのだ」

独り言のように小声で言ったのがツボだったのか、斎藤さんが正座した体勢のままサッと(私から)顔を背けた。
砂色のお召の肩が震えてる。
正座の腿の上で袴を握りしめた両の拳も震えてて・・・。

いや、たぶん笑ってるだけなんですけどね。

・・・失礼しちゃうわ(--メ


旋風のように、新選組の副長さんは屯所へ帰って行った。
まあ、それはいつものことだったんだけど。

私はもしやおゆうさんの所へ行くつもりだったのかと(そんな時間だったし)、納戸の隠し扉を使うのかと思って、ちょっと挙動不審になって斎藤さんに怪しまれたりしたんだけどね(^^;

木戸の外に部下を待たせて居ると言われてびっくりしたんだった。

お付きの人なんて居るんだー!?と、この人そんなに偉かったんだとびっくりし、この寒いのにずっと外で待ってるなんてぇ~!とびっくりし、そんなとこに置き去りで庭にも入れないのかよコイツ!と、新選組の副長というものの無慈悲に驚いた。

未だ月も昇らぬ時分で、夜目の効かない私の耳に、上司と言葉少なに会話する声が余りにも若くて(まだ声変り中な感じ)。
文句も言わずに外に立たされてたと思うと余計気の毒で。

どういう神経してんだ!やっぱこいつクソオヤジだわ!

と喰ってかかろうとしたのを斎藤さんに止められ、先を急ぐ体の当の本人に無視されて、その場はそのまま過ごしてしまったんだけど。



斎藤さんが仕事に復帰するのはめでたい事だけど、しばらくの間は会えなくなるワケで。
でも、
あーあ、楽しかったのになー。
と残念がる暇は無かった。

今すぐにでも天満屋に出勤しろと上司から命令を受けた斎藤さんが、しぶとく食い下がって最後の最後まで銃の講義を続けてくれたお陰で、・・・その夜は結局徹夜になった。

冷え込んだのよー。
どてらに包まってね、火鉢をピッタリ引き寄せて、手をあぶりあぶり、冷たい鉄製の銃を弄るのよー。辛いのよー(涙)。

銃の扱い方は既になんとか覚えていたんだけど、手入れの仕方をまだ全然教えて貰ってなくて。
掃除の仕方というか順番というか。
分解の仕方しかり。
斎藤さんと試行錯誤しながら(彼も専門家ではないので)、いろいろやってたら朝になってたという・・・(--;

っていうか途中何度も居眠りしちゃったけども(^^;
時々、斎藤さんの方が拳銃弄るのに夢中になってたりするんで。
会話が途切れると即、眠くなるし。



朝。
雀がチュンチュン鳴き始める頃。

せめて朝ごはん食べて言ったら?と言ったのに、一晩余計に過ごしてしまったから、と斎藤さんは先を急いだ。

ウチに現れた時に着ていた紋服を着て、でももう頭巾は被らず。
しばらく居続けになるからと、着替えを詰めた行李を風呂敷に包んで持ち。

「もう行っちゃうのー?アタシ、幸になんて言ったらいいの?あの子、今朝も練習出来ると思って張り切って来るよ。そしたらなんて言ったらいいの?」

グズグズと何を言っても斎藤さんは微笑むばっかりで。

「もう少し居たらいいのに。向こうへ行ったらまた寝れないかもしれないもん、ここで少し仮眠して行ったらいいのに」

そりゃあ再出発の門出と決めた朝だもん、私が何を言ったって雑音でしかないよね。

雨戸を開けて外に出ると、寒い。
息が白い。
徹夜明けの眠気も吹っ飛ぶ。

夜が明けたばかりの、一日で一番気温の低い時間帯。
むき出しの頬や首筋に、凝る冷気がヒタっと張り付くよう。
霜柱を踏んで歩く度、裾から入り込む冷気が忌々しい。

寒いから家から出なくて良い、風邪をぶり返すぞと斎藤さんは言ったけど、せっかくの門出だもの、ちゃんと送り出したいよね。
しかもこんな時に私しか居ないんだもんね(だから幸が来てからにしたらと言ってるのにー)。

体を折るようにして木戸を潜る彼の後に付いて、両袖で顔を覆いつつ外に出る(そうしないと顔が寒い)。

家の前の小路は、大通りの向こうまで一面の霜畳。

姿勢の良い長身の後ろ姿がくるりとこちらを振り向いて、

「世話になったな」

言った斎藤さんの月代が青々としていて、見てるだけで寒いよ!と思って笑っちゃった。

「行っちゃうと寂しいなー。もっと一緒に遊びたかったのに」

と、私は足踏みして身を捩りながら(^^;
だって、寒くてじっとしてられない。

「ああ」

と、たぶんその様子を見て笑う。
穏やかな笑顔だった。

数日前の事件の夜、襲われるのが判っていて何故家に戻るのか!と憤っていたのと同じ人とは思えない。
あんたを囮にして敵を誘き寄せるなんて!って猛烈に怒ってたっけ。

なのに。

「今度は斎藤さんが置き餌になるのね」

と、からかったら、

「ああ。だが餌は餌でも今度のは毒入りだ」

そう言って大刀の柄頭に手を置き、

「うっかり喰いついたなら生きては帰れんさ」

笑った顔が晴れやかで。
これで良かったんだ、と心の底からそう思えた。


そう。
本気で死を覚悟していたなどとは思いもしなかったんだ。
私の家なんかとは危険の度合いが桁違いの、そんな場所に身を置こうと、囮になりに行こうとしているなどとは。

私は全く子供過ぎた。
何も判っちゃいなかった。


「いってらっしゃ~い!」

と手を振って送り出し、もう門口を曲がると言うところで、

「斎藤さ~ん!また遊びに来てよね!いつでも良いから~!」

この期に及んで私はまだ、彼がいつでも現場を離れて遊びに来れるものだと思い込んでた。

そんな私の能天気が気に障ったのかもしれない。
斎藤さんが振り返った。
踵を返して戻って来る。

「あら?何?忘れ物?」

と尋ねる間もなく、ずんずん近づいて来る顔が・・・真顔。

えっ?

っと殺気?を感じる前に、がば!っと・・・ハグされてしまった!

「!!!」

結髪も崩れんばかりに抱きしめられ、黒羽二重の胸元に顔をぎゅーぎゅー押しつける格好になって喋れない。
ひとしきりジタバタしたらようやく力を緩めてくれて、

「ちょっ、ちょっと離してよ!斎藤さんっ!」

声だけ出せた。
突然の無礼に文句を言おうと勢い込んだのに、

「それは置いて行く」

斎藤さんの声が思いのほか沈んでいて、ちょっとドキリとした。

「え?」

「斎藤一はここに置いて行く」

・・・あ、そうか。

と私は勝手に腑に落ちた気がしていた。

斎藤さんって、もう斎藤さんじゃなかったもんね、って。
山口さんになったんだもんね、って。
頓珍漢に腑に落ちたんだ。
この時の彼の覚悟がどれ程のものか、私には全然判ってなくて。

ただ、ここからまた彼が新しい名前とともに新しい人生を歩き始める覚悟で居るとは判ったので。

「判った。頑張ってね。もし疲れた時にはいつでも休みに来ていいよ。私はいつでもここに居るし。いつでもここへ来て、「斎藤さん」に戻って遊んで行けばいいよ」

すると彼は私を抱きしめたまま何故かくくっと笑ったんだ。
可笑しそうに。
自虐的に?

私、なんか可笑しいこと言ったかなぁ?と思ったのを覚えてる。

それから彼はゆっくりと体を離し、私を見下ろして、微笑み、頷き、

「行って来る」

再び身を翻して歩き出した。

「いってらっしゃい。頑張ってねー!気を付けてー!またねー」

はしゃいでるのが自分だけとは気にも留めずに、手を振り続けた。

地面を白く覆った霜が足の下で溶けて。
黒い足跡が点々と連なり、遠くなる。
今度は何度声を掛けても振り向きもせず、丈の高い紋服のシルエットが門口を曲がって消えた。


さて。

これですっかり肩の荷も下りたし、幸が来るまで一寝入りしようかな。

縁側から家に上がる。
ガランとした茶の間の薄暗がりが、徹夜明けの行灯の煙で白く煙って見えた。







霜の朝。

仕事先はすぐ近くだし、またすぐ会える・・・と思っていたのに。
次に彼に逢えたのは実に半年も先のこと。
戦の最中の、雨に煙る深緑の奥州路でのことだった。


               ― 了 ―




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