もう45年以上前から管理人の脳内に住み着いてるキャラクターの、稚拙な妄想小説のお披露目場です。
ご笑覧下されば幸いです。

・時系列に置いてあります。
・但し最新作は先頭に。
・中断&書きかけ御容赦。
・感想&ツッコミコメントは「田毎の月」へでもこちらへ直接でもOKです~vもちろんメールでも。

・暇つぶしにネタばらしブログもどうぞ→管理人ざんげ室 

駕籠から下りて来た照葉さんは、町方風の島田を結って、きれいに化粧もして、こっくりとした柿色の裾模様の着物に葡萄色の花更紗の帯を上品に締め、まるでお人形のように綺麗だった。

お披露目こそしなかったらしいけれど、ちゃんとお店の人たちに見送られて、お世話係の女の人も付いて来た。

晴ればれとしたその姿を見てたら、嬉しくて。

「なんであんたが泣いてんのさ」

自分が身請けしたわけでもないのに、と幸に小突かれ、自分でも可笑しくて泣き笑い。

「おかえりぃ!」

私がそんなボロボロの状態で声も出ないのに気を効かして、幸が代わりに声をかけると、白塗りのすまし顔が破顔して幼顔の残るテルちゃんの顔になった。

そちらも目に涙を浮かべていて、

「夢みたいやわァ。また三人仲良う遊べるなんてウチ、信じられへん」

そこから先はワーワーキャーキャー、周りそっちのけで盛り上がりまくり。
三人で抱き合ってたら、他のみんなが目を丸くしてたっけ。
仕事で来れなかった沖田さんの名代で、受け入れ班長だった山崎さんも(笑)。




私達がわいわいやっている側で、山崎さんは丁子屋の松蔵さんとなにやら話し込んでおり、しかも様子がどうも営業用ではない。
こんな日のわりには松蔵さんはどことなく顔つきが硬く、山崎さんに耳打ちでもするような話し方で、昨日今日の知り合いではないことを窺わせていた。

ふと、山崎さんが西国から帰ってすぐに島原での騒ぎを嗅ぎ付けたのはそんな事情からかと思い当たり、今更辟易とした。

だって、この間沖田さんに連れられて松蔵さんが顔を見せたときは、この二人、毛程もそんな気配は見せなかったんだぞ?

まったく。
大人って、やーね(爆)。


照葉さん落籍の件もそんな山崎さんの顔が効いたのか、思ったより条件は良かったみたいだ。

彼女の借金は棒引き。
つまりタダで貰って来たってこと。
付添い人と日々の食事の用意はお店側で出して貰って、食費だけはこちら(沖田さん)持ちってことだったが。

照葉さんの付添いは、丁子屋さんから交代で来た。
しかもひとりではなくて、その時々、特に午後の空き時間には手隙の者が何人でも来た。

借り受けていたのが島原近くの農家の離れだったので、見舞いがてらにひょいと、店の若い衆も現役の天神さんまで、毎日誰かが顔を見せていた。
ほとんどお散歩コースに入ってる感じ(^^;

お正月には、島原がそっくりやって来たみたいな宴会までやらかしたっけ。

照葉さんの側に必ず誰か付いて居てくれるおかげで、私も小夜も、無理をしない程度に通える環境になって助かった。

いや、そういう環境に仕向けてくれたんだろうけど。
誰がって、そりゃ周りの「大人」達がさ(笑)。

照葉さんだけでなく私達にとっても格好の遊び場が出来て楽しかった。

小夜んちは仮にも新選組の副長の休息所であるので、あまり羽目は外せない(外すヤツも居るけどね。ってか住んでるけど・爆)。
けれど、照葉さんちでは自由だった。
気を使わない家主(=沖田さん)のおかげで好き勝手できた。

秋には庭で、散り敷いた紅葉の上でお弁当を広げてピクニック気分ではしゃいだり、Xmasには(もちろん邪宗門の祭礼とは教えないまま)準備に準備を重ねてパーティーをして・・・。

千代紙で鎖を作ったり桜紙で花を作って部屋を飾ったりするのが珍しいらしくて、照葉さんは大層歓んでくれたのだったが、それに気を良くした小夜が、障子に星型やら何やらべたべた貼りまくって大家さんに小言を言われたりした(^^;。

行灯に細工してプラネタリューム作っちゃったし、小麦粉と砂糖だけで焼いたクッキーは照葉さんのお気に入りになったし。
試行錯誤の末、シフォンケーキまで焼いてみたりして、ホント、楽しかった。


きっと多少調子が悪くても、私達には計り知れないプロ根性で、照葉さんは私達のためにニコニコしていてくれたのかもしれない。

他の人達にはどうだか判らない。
沖田さんの前ではどうだったのか。

知らずにはしゃいでいた私達の目を覚まさせたのは、彼女の寝付いた姿だった。

それまでも寝たり起きたりを繰り返しては居たのだが、この時から後はずっと、床を離れられる気配は無く・・・。
そのことが、それまでの無理を窺わせた。

でもそのことで、はしゃいでいた自分達を責めようとは思わなかった。

なぜならそれは、照葉さん自身がそうしたいと願ってのことだったと思えたから。
我々が彼女のプロ根性にまんまと騙されていたことが、彼女にとって大きな喜びとなっているのが伝わって来たから。

だから、これでいいんだと思えた。

それが、明けて慶応三年の春のこと。

Xmasの残りの千代紙で暇つぶしに千羽鶴をひとつ作り終えた頃だった。
照葉さんのところへ遊びに来た人達が一羽づつ折り、本人もお喋りしながら折り、小夜が彩りを考えながら綴った千羽鶴は鴨居から吊り下げられ、春風に揺れて、病床の照葉さんを楽しませた。

この年の正月早々から新選組では事件が連なったにも拘らず、否、そのおかげで、私も小夜もほとんど毎日照葉さんのところへ通うことができた。

周りの誰も、私達などに構っていられる状態ではなかったのだ。
私達の知らないところで、確実に時代は動いていたから。

看病するというほど長居はできなくとも、臥せっている彼女の様子を毎日確かめることができたし、無聊を慰める役にはたったと思う。

毎日通えるとは言っても暇なわけではなかったけど。

私は市内各所への連絡係に使われていたし、小夜などは何時誰が訪ねてくるか判らないので家を空けるなと言われていたのだ。
その頃、彼女の家は連日連夜、副長やその腹心の監察方の密談場所として使われていたんである。

だが小夜は、自分の家で行われているミーティングが長いと判るとすぐに家を抜け出して来ていた。
走れば五分の照葉さんのところへ、つまりはサボタージュ。
自ずと長居はできない。

だから、照葉さんの状態の悪いところに行き当たったのは運が悪かったとしか言いようが無い。




会議中に度々抜け出すのを疑われて、一度監察の人に後をつけられたことがあった。
何も疑われるようなことはしていないのでそのままにして置いたら、いつの間にか監視の目は外れた。

その代わり、他人の休息所なんぞへ入り浸るなとクソオヤジに小言を言われたな(--;

小言は右から左へ聞き流すのが常套。

その日も午後遅く、山崎さんが顔を見せていたので安心して家を抜け出すことができた。
この人が来ると話が長引く傾向があるんだよねv

三月も後半、春は過ぎ青葉の季節になっていた。
時折夏のような陽射しの日もあって、単の着物が軽かった。

テルちゃんの所へは、沖田さんが来ていた。
彼の休息所だから居るのは当たり前なんだけど、この時は二、三日前から体調を崩して二人仲良く枕を並べて療養していたのだった。

好きな人と一緒に居られて、テルちゃんは臥せっていながらもニコニコと嬉しそうだった。

「むさ苦しくて申し訳ありませんねぇー。明日からは屯所に戻りますよぅ」

と、私の顔を見て無理をしたのか本当なのか、沖田さんは自分の寝床を畳んで、空いた所へ座布団を出してくれる。

おどけた口調とは裏腹に、額に汗を浮かべてふうっとため息をついた。
鬢(びん)をかき上げる彼の手はもともと骨っぽいけれど、ますます筋張って見えるのがなんだか不安。

微熱が続いているのだという。
咳もひどかったらしいが、この時は落ち着いていた。

「無理しなくていいんじゃないのー?こんな素敵な療養所もあることだし、もっとゆっくり休んでいれば?ねぇ・・」

と隣の寝床のテルちゃんにウインク。
こちらも毎日のように熱が出ていると聞いたが、

「ウチの事、飽いてしもたんと違いますぅ?添い寝する相手、他の女子はんに替えたくならはったんどっしゃろ?」

額に濡れ手拭を乗せ、やつれて力の無いか細い声だったが、それでも茶目っ気はたっぷり。
明るいのが救いだ。

「何言ってるんだぃ」

と、浴衣の前をかき合わせながらぶっきらぼうに答える沖田さんの様子が、逆に親密さをうかがわせて微笑ましかった。

「ダメですよー。そんなの、私が許しませんからね」

冗談に乗ってやったら、

「イヤ嬉しい。小夜ちゃんが味方んなってくれはったのやったら百人力や」

テルちゃんの合いの手も上手。
沖田さんがそれを聞いてギャフンとうなだれた。

「カンベンしてくださいよぅ。もういい加減いじめないでくださいー」

「勘弁ならん~」



コヤツは去年、とんでもない噂を流してくれたのだ。
しかも屯所内で。

屯所の外に居る私は全然知らずに居たのだが、ある時、家の前に斎藤さんが悲壮な顔で立っていて(それも唐突・爆)、

「小夜さんあんた、お腹の子の父親はいったいどっちなのだ」

と聞かれたんだ(--;
一瞬、頭がどうかしちゃったのかと思ったよ。

面食らいながらも、何のことかと話を聞いてみたら・・・とんでもない話になってるじゃないか!(怒)。

「何それ?どっちってどういうこと?」

「副長の子なのか沖田さんとの・・・不義の子なのか・・・」

・・・おいおい(--;
この人の頭の中も相当物凄い事になってやしないか?

あまりの言われように始めは頭に来て蹴飛ばしてやろうかと思ったけど、この人にあらぬ誤解させてるのは私自身のイタズラだし(^^;噂の出どこは沖田さんだと言うし(--;

この人にあたったら可哀想だな、と思い直して、

「どっちでもあるわけないでしょー?」

溜息したら、

「じゃじゃじゃあ誰の子なんだ?」

改めてうろたえてるんだけど・・・(--メ

いい加減にしろ!
人を何だと思ってるんだ。
こんな、まだ彼氏も居ないような乙女を捕まえて!

「だからー、私は妊娠なんてしてないわよ。失礼ねぇ」

「??」

「私のお腹には何も入ってませんって言ってんの!」

蒼ざめた顔がみるみる真っ赤になったっけ(笑)。

私が不義密通の子を宿したとでも思って慌てて問いただしに来たんだろうけど、まったく、勝手に話を作るなよ!(←と言いながら誤解は未だに解いていない人・笑)



そんな経緯があって、沖田さんは私に頭が上がらない。

きっと土方さんには嫌というほど絞られたんだろうから、私はそれほど怒りもしなかった。
だって私の自家中毒症状をつわりと誤解するだなんて・・・ギャグとしては結構面白いじゃん?(爆)。
いじめる材料としてはいいネタだしねv

「今時分、こんなところに出てきちゃっていいんですか?また副長に叱られますよぉ?」

沖田さんは苦し紛れに話を逸らした。
開け放たれた縁側から入って来る風が爽やかだが、もしかしたら病人には肌寒いのかもしれないと、衣桁に掛けてあった羽織を取りに立つ。

「また、って何よぉ。今度は追い出しにかかったね?私やっぱりお邪魔虫だったかぁ。来るんじゃなかったなぁ~」

足元に置かれた小振りの行李に千代紙で折った鶴が溢れていた。
ここに来るみんながみんな、これを折るのが癖になっちゃってて(^^)。
溜まるんだよね。

後で数数えながら綴らないとなー。
と思いつつ、それを跨いで、羽織を沖田さんの肩に羽織らせると、すいません、と彼は頭を下げてから、

「違いますよぉ。近頃副長はお忙しそうだから小夜さんが居ないと大変なんじゃないかと・・」

「私が居なくて大変なんてことはありませんー。居れば居ただけ“盗み聞きするな!”って怒鳴られるだけだもん」

そのわりに出歩くな!とも言われてるんだけどさ。
だったら私はどこに居りゃいいんだ!

「じゃあ今も誰かいらっしゃってるので?」

「そ。山崎さんと副長殿が御歓談中~」

「ああ・・・」

と、今日の付添い担当のおばさんが母屋からお茶を淹れて来てくれたのを受け取りながら、沖田さんは曖昧に返事をし、

「そういえば小夜さん、伊東参謀が屯所を出た話は聞いてましたか?」

「聞く気は無くても耳には入って来たけど?」

とは答えたものの、それがどういう意味を持つのか私なんかに判りはしない。
そうですか、と沖田さんの返事もなんだかすっきりしない。

「それがどうかしたの?」

受け取ったお茶を啜りながら聞き返すと、

「じゃあ、あれから斎藤さんとは会いました?」

・・・急に質問が変わったんだけど。
つーか、あれからってどれから?(笑)。

「じぇんじぇん?そういえば、お正月に永倉さんとなんかやらかしたって話は聞いたけど・・・」

言われてみればあの想像妊娠事件(爆)以来、ほとんど顔を見てない。
でも、

「どうして?」

湯呑み茶碗を膝元に置いて、再び聞き返すと、

「いやぁ・・・あのぅ・・。私はせんだってチラッと・・話は出来たんですがね・・・。幸からは聞いてませんか?」

なんだか奥歯に物の挟まったような物言いだ。

何が言いたいんだろうと再度問いただそうとした時、話し込んでいた私達のすぐ横からコンコンという咳がしたと思ったら次の瞬間、ぞっとするような音を聞いた。
げぼっと湿った音がしたのだ。

反射的にそちらを見た私達の眼に飛び込んできたのは、大量の赤!
仰向けに寝ているテルちゃんの口から鮮やかな赤が溢れ出ているのを、・・・見てしまった。

鼻や耳から顎、首、浴衣の襟まで、既に真っ赤な血で覆われているのが見えていた。
一瞬にして充満する血の臭い。

動けなかった。
声も出なかった。

目の前に座っていた沖田さんは、獣のような素早さで彼女の枕元に飛びつき、首を横に向けたので、次にごぼっとくぐもった音が聞こえた時には、大量の血が枕元の布団を朱に染めた。

その後も咳のために温かい血飛沫がすぐ側に座っていた私の手にまで飛んで来て・・・。

思わず避けようと身を引いた自分が居た。
酷いリアクションだ、と自分でも思った。

情けない。
でも、すくんでしまってどうしようもない。
目を逸らしてしまう。
目を瞑ってしまう。

「照葉!」

と、沖田さんの切迫した声に目を開けると、夏蒲団を跳ね上げてもがくテルちゃんの白い足が目に入った。

沖田さんは、血に汚れた顔に苦悶の表情を浮かべる彼女を抱え上げ、下を向かせ、

「照葉!咳をしろ!息を」

背中を叩きながら叫んでいる。

そうだ、咳をしてない。
まさか・・息が出来ない?

それを証明するように、しがみつくテルちゃんの手指が沖田さんの腕に食い込んでいる。

もしやこのまま・・・と最悪の事態が頭を過ぎり全身から汗が吹き出た時、すぐ側で金切り声がした。
心臓が止まるかと思った。
ガタガタと体が震えた。
付添いのおばさんが玄関口の土間にうずくまる気配がした。

「騒ぐな!」

初めて聞く沖田さんの怒号。
彼をして焦燥感を隠さない切羽詰ったこの状況に、私は何が出来たろう。

何かしなくちゃいけないのに、何をどうすればいいのか判らない。
たまらなかった。
逃げ出したかった。

誰か助けて!と、私まで悲鳴をあげそうになった時、目の前に信じられない光景が・・・。

沖田さんが照葉さんの口を吸い始めたのだ。

彼女の気管に詰まった血(あるいはその塊?)を吸い出そうとしているのだった。
自力で排出できないなら、吸い出してやるしかないと判断したのだろう。

音を立てて彼女の喉に詰まった血を吸出し、口に含んだそれをどこに吐き出そうか一瞬迷って、丁度すぐ側に置いてあった手桶にそれを吐き出した。

それを三度ほど繰り返した。
私のすぐ目の前でだ。

まるで、沖田さんが血を吐いているように見えた。

壮絶過ぎて、涙も出ない。

頭から血の気が引いて、首筋に冷汗が湧くのが判る。
震えが止まらない。
口の中に変な唾が溜まって来て吐きそうになる。

見なければいいと思うのに、視線が貼り付いてしまったように目を逸らせない。

ひゅーっという音の後、すぐにげほげほと咳が続き、

「・・・助かったな」

テルちゃんが息をついたのを確かめ、自分も苦しそうに深呼吸をひとつして、沖田さんがそう呟いた。
がっくりと背中を丸めて痰の絡んだような咳が続く。

「・・かん・・に・・ん」

苦しい息の下からかすかにテルちゃんの声が聞こえる。

「喋るな」

咳をしながらも、沖田さんは枕元に転がっていた濡れ手拭で、血に汚れた彼女の顔を丁寧に拭ってやっていた。

「しくじったな・・・」

視線の先に桶。
血を吐き出してしまって、手拭を濯げないのだ。

こちらを振り向いた沖田さんの顔も血にまみれている。
浴衣の胸にかけて、赤い斑点が散っている。
とにかく、そこら中がテルちゃんの血で赤く染まっているのだ。

それを見なくちゃいけないのは、いったい何の拷問なんだろう。

私の視線に気づいたのか、彼は自分の口元を浴衣の袖で拭い、

「申し訳ない。小夜さん、水を汲んで来てくれませんか」

喋る口の中まで真っ赤だった。

「・・はい」

もう何も考えられない。

言われるまま、よろよろと立ち上がって、水のはいった桶を持ち上げた。
重い。
もともと水を汲んであったものに、吐き出された血が・・・。

見て居たくなかった。
目を閉じたかった。
だが桶に満杯の血の海をこぼさぬように運ぶのには、それはできなかった。

ぐるぐると、赤い渦が両手の中にあった。
それは、死の色だった。

血にまみれたテルちゃんの姿が、目に焼きついて離れない。

あんなきれいなお人形みたいな顔が・・・赤く染まって。
汗みずくの肌に髪が張り付いて、額に血管を浮かせ、身をよじって苦しんで。
沖田さんの肩を掴んだ爪が紫色になってた。
バタつく足先が蝋のように真っ白だった。

あのまま呼吸ができなかったら、今頃は・・・。

沖田さんだって何れああなる・・・・?


赤い渦に引き込まれてしまいそうな心持がして、気がつくと桶を取り落としていた。

いつの間にか庭に出ていて、足元の黒い地面に桶はひっくり返っている。
血に染まった赤い水が音も無く地面に吸い込まれていくのを、息を詰めて見つめていた。

ぬめぬめと土の中に隠れていく様子が、まるで生き物みたいだった。

足元の地面も崩れて一緒に吸い込まれて行くような錯覚に襲われる。
この世が全部ぐずぐずと崩れて、暗い世界へ引きづり込まれて行くような・・・。

ふと、下駄を履いた裸足の親指が、赤い水に濡れているのに気がついた。

まるで赤い触手だな。

と、思った瞬間、ずぶずぶと地面に引き込まれる気がして・・。

離れの土壁に寄りかかって、立っているのがやっとだ。
心臓の鼓動が、頭の中でぐわんぐわんと増幅される。
眩暈がしそうだった。
体の震えも止まらない。
脂汗が流れる。



ふと、遠くで誰かの声が聞こえた。

「小夜・・・」

と、それが自分の名であることに気付くのに、僅かばかりの時間が要った。

目を上げた。

それでようやく、それまで自分の視線が地面に釘付けになっていたのに気がつく。

視線の先に、土方さんが居た。

最初目が合った時、一瞬怪訝そうに眉を上げたが、それからいつものようにぐっと眉を寄せ怒ったような顔になる。
への字に締めた口元もいつもと同じ。
強い目の光も、いつもと同じだった。

ガタガタと、体の震えが大きくなった。
足の力が抜けてくる。

抜けて歩けなくなるその前に、何かにすがりたかったんだ。
揺ぎ無い何かが、そこに在ったんだ。

その衝動を抑えられずに、もつれる足を踏ん張って走った。

必死で抱きついた首筋に、頬が触れる。

熱かった。

ああ。
この人って体温高いんだ。

その現実感にほっとして、死の気配に取り付かれて冷たくなった体が、静かに温まって行くのを感じた。

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