もう45年以上前から管理人の脳内に住み着いてるキャラクターの、稚拙な妄想小説のお披露目場です。
ご笑覧下されば幸いです。
・時系列に置いてあります。
・但し最新作は先頭に。
・中断&書きかけ御容赦。
・感想&ツッコミコメントは「田毎の月」へでもこちらへ直接でもOKです~vもちろんメールでも。
・暇つぶしにネタばらしブログもどうぞ→管理人ざんげ室
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九尾の狐は、中国(清国)ではもともと瑞兆を表す聖獣なのだと、山南先生本人から聞いたことがある。
あれはいつのことだっけ?
日本ではその妖性ばかりが強調されて妖怪扱いになってしまっているが、と不本意そうにその出典から全て説明してくれたけれど、その時周りに居合わせた者は、またいつもの話と聞き流していた。
だから、それはきっと皆が聞き飽きるほど繰り返された話だったのだと思う。
もちろん、副長も知っていたはずだった。
非番だった沖田さんに連れられて散歩に出た。
先年の火事の焼け跡の残る市街を抜け、木屋町を通り、京の都の玄関口、三条大橋の上、お団子で小腹を埋めながら、王都に出入りする雑踏を眺めていた。
春彼岸だった。
梅は盛りを過ぎ、ちらほら花見の声も聞こえるかという陽気で、人出の多い街中をぶらぶら歩くのは華やいだ気分で楽しかった。
それまでもたまに、こんな風に市中を歩き回ることがあった。
沖田さんが私を連れて歩く時はいつも二人きりだ。
仮に他の隊士も一緒だったら、彼自身、めったなことは喋れない。
相手が私だといつも、仕事のボヤキも上司の悪口も身内の噂話さえ、喋りたいだけ喋っていたっけ。
信用されてはいるのだろうけど、ほとんど「訴え仏」扱いだ。
まぁ他に隊士が居たら私自身気を遣ってしまうと思うので、ありがたいことは確かなんだけど。
散策のルートは、普段巡察している区域の外が多かった。
拘束時間外とはいえ、新選組の幹部が市内を歩き回るのは、仕事の延長と思えなくも無い。
のほほんとぶらついていると見えて、その実、仕事熱心な油断の無い人なのかもしれなかった。
そんなところが私は最初から好きだったし、近頃屯所に居場所が無くなり、入りづらくて顔なじみの人たちと疎遠になりかかっている私を見つけて、散歩に誘ってくれたのもありがたく、師につきあって長距離を踏破するのも苦ではなかった。
頭の上で雲雀の鳴く声がする。
今日は特に暖かい。
橋の上は今まさに京に登って来た旅支度の侍やら大きな荷物を背負った商人、私等と同じような格好の物見遊山の田舎侍、墓参りの女子供、彼岸の花売りの声で溢れかえっている。
三条通りから四条通り近辺の財力のある商家は早くから復興したし、寺町から東側はもともと焼け残ったところなので橋の上から眺める限り先年の大火の爪あとは容易に窺えない。
付近に漂う線香の香りが寺の多さを窺わせる。
我々は橋の上で川風に当たることで、無意識にその匂いから退避しようとしていたのかもしれない。
擬宝珠のある欄干にもたれ、雑踏にちゃちゃを入れながら行儀悪く団子の串を舐めていた沖田さんが、ふいにお喋りをやめた。
聞くともなく聞き流しながら、欄干に登って川面を眺めていた私が振り返ったとき、あんぐりと開いた口からぽろりと、竹串が落ちるのが見えた。
その視線の先に、在ったもの・・・。
白昼夢という言葉があるけれど、まさにこのことではなかったかと、余程後になってから思った。
雑踏を押し分け、悲鳴や怒号を起こしながら騎馬の侍がやって来る。
単騎だ。
だが、およそ人混みの中に入るスピードではない。怪我人が出ても不思議は無いくらいの・・・。
「山南先生・・・!?」
と、判別がついた時には、沖田さんは既に敢然と人並みをかき分けていた。
あっけにとられながらも、その背を追う。
近づくにつれ、その異様さに背筋が薄ら寒くなった。
いや、見た目は至極普通なのだ。
普段、屯所で見かける時の温和な微笑を浮かべ、衣服も別段変わったところは無い。
なので何がどうとは思い当たらないが、埃っぽい春の明るい陽射しの中で、何かたとえようもなく違和感を覚えたのは確かだ。
「山南先生!」
ことさら大きな声で呼ばわったのは、周りにいる人たちの注意を促し、怪我人が出ないようにとの配慮であったかもしれない。
だが、呼ばれた本人は全く反応せず、駆け寄った沖田さんが馬のくつわを取って引き止めるまで何度呼ばれても仮面のような微笑を浮かべたまま、まっすぐ前を見ているだけだった。
まるで、自分の他は周りに誰も居ないかのように。
馬を止められて、一度笑みが消えたように見えた。
のどかな雲雀の鳴き声も、花売りの売り声も、雑踏のざわめきも、無音になったように思えた。
それからゆっくり、こちらを見下ろし、
「沖田君じゃないか」
微笑んだ顔が、尋常ではなかった。
おそらく彼には自分と馬と沖田さんの他は、何も見えていないんじゃないかと思った。
見えていないから、ごった返す往来に馬を疾駆できたのだ。
怖じける私を尻目に、沖田さんがいつもの明るい声で尋ねた。
「どちらへ行かれるんです?」
「江戸へ・・・帰ろうかと思うのだ」
旅支度などしていない。
笠も被らず荷物も持たず羽織も着ずに、足元さえ素足に草履掛けだった。
まるで屯所の居室でくつろいでいるままの姿なのである。
その姿で馬を繰るのが異様なのだと、ようやく判る。
馬は新選組の厩舎から連れ出したのだろう。
さすがに近藤局長の専用馬ではなかったが、総長に命ぜられれば馬方も拒否できずに・・・いや、命ぜられるまま疑問も持たずに馬を出したのだと思う。
行き先を江戸と告げられても、沖田さんは驚いた素振りも見せなかった。
「なるほど、そいつは素敵だ。私もそろそろ帰りたくなっていたところでした。ここはひとつ、一緒に連れて行ってはくれませんかね?」
ゆっくり一呼吸するくらいの間を置いて、山南先生はにっこりと目尻にシワを寄せ、
「そうか」
言ったにもかかわらず、馬を走らせようとする。
惑った馬が足をばたつかせ、どうどう、と引き止めようとする沖田さんの額には汗が浮いている。
「置いていかないでくださいよ。ひどいなぁ、山南さん。お願いしますよ。お供させてくださいったら・・・」
相手の気を引くように喋り続け、揉み合う合間に、後ろで下がって見ていた私に小声で、
「屯所へ・・・いや、土方さんに事情を伝えてくれ。私は今宵のうちには戻れないだろうと」
不安になった。
この悪いものに取り付かれたような、常のものではない山南先生と一緒に居て、ひとりで大丈夫なのか。
「だが必ず戻ると」
不安を払拭してくれるかのようにそう言い、馬が大人しくなった一瞬の隙に後から飛び乗る。
先程までの気の抜けたようなぶらぶら歩きからはかけ離れた運動能力の高さに舌を巻いた。
山南先生の後ろから覆いかぶさるように手綱を取り上げて、馬を鎮めながら、
「くれぐれも他の者には気取られぬように。頼んだぞ」
遠ざかって行く沖田さんの背中が陽炎に揺らぐ。
瞬間、再び人並みと喧騒の只中に押し戻されながら、私は走り出していた。
居てくれれば良いなと願いながら屯所の門を潜る。
門口付近には生憎と知った顔が居なかった。
となれば顔パスは使えない。
「副長に、お取次ぎ願いたいのですが」
もっとも、そんな生意気めいたことは顔見知りが居たとてなかなか出来るものではない。
余程差し迫った用事でもなければ。
「副長は生憎只今来客応接中にてお取次ぎ致しかねます」
返事はつれなかったが、屯所内に居ることは確かなようだ。
今宵は戻れない、と沖田さんは言っていたし、とすればそれほど急ぐことは無いのかもしれない。
「判りました。では待たせていただきます」
迷惑そうな顔をされるのを無視して、大刀を外し、上がり框に腰をかけて小半時、ようやく見知った顔が現れた。
「鬼丸殿ではござらんか。何をしておいでかな?」
山崎さんだ。
武張った物言いは、その拵えに合わせているのだ。
武家姿で羽織まで着込んでいるが、あまりの陽気に噴出す汗を手拭で拭っている。
足元は足袋草履だった。
近頃守備範囲を変えたらしく、こちらの姿を見ることが多い。
「副長待ちです。来客中だそうで・・・」
すると彼は大刀を外し草履を脱ぎながら、ポンと私の肩に手を置き、
「なるほど。それはちょうど良かった。私はその副長に呼ばれたのです。一緒に参りましょう」
私の置かれた状況を察して、そう言ってくれた。
気を遣ってくれたのだ。ありがたい。
だが、
「ごめんなさい。私は副長お独りにお知らせしたいので・・・」
山崎さんは仲間だ。
副長の信頼も厚い。
だが、彼と同席して話していいのかどうかの判断は、まず副長に諮らねば。
それが沖田さんの言いつけだもの。
そんな私の不調法にも、彼は毛ほども気を悪くした様子も見せず、
「判りました。話しておきましょう」
にっこり笑って廊下の奥に消えた。
それから呼ばれるまで5分もかからなかった。
早っ!
山崎さんの気遣いに感謝しながら、廊下を回って副長の居室兼事務室に向かう。
来客というのはおそらく嘘だった。
誰も出て行った様子は無いし、誰にも行き違わない。
副長はきっと局長あたりと話していたのかもしれない。
誰にも行き違わないのに、副長室には山崎さんも居なかった。
「だいぶ嫌われたようだな」
部屋に入るなり言われた。ニヤついている。
正座していた脚を崩し、タバコを吸いつけている。
会議の合間の一服というところか。
「私のような軽輩が副長に会わせろと言うのですから仕方有りません」
大刀を置き、対峙する。
「そうか。まぁ許せ」
応対した部下を責めるつもりは無いらしい。
私もその方が気が楽だが。
茶も出されずに待っていたとでも山崎さんは言ったらしく、お前の分だと目の前の茶を勧められた。
苦笑しながら一口飲むのを待って、
「それで、用向きとは何だ」
私がさして急ぐ素振りも見せないので、彼もそこまで余裕が有ったのかもしれない。
だが、次の一言で、顔色が変わった。
「先刻、山南先生に行き会いました」
彼の驚きようは、くわえていたキセルを落としそうになったぐらい激しいものだった。
一瞬、声も無い。
見開いた目に、開け放った廊下の向こうの明るい庭が写り込んでいる。
この驚きようが、やはり何か訳有りなのだと窺わせた。
「騎馬で三条大橋を下って行くところでした。沖田先生がついて行かれました。今夜は屯所には戻れないそうです」
問われる前に要旨を羅列すると、その間に素早く平常心を取り戻した副長が、核心を突いて来た。
「行き先は?判らんのか」
「山南先生は江戸へ行くと仰っていましたが」
「江戸へ・・・?」
息を飲む。
目が泳いでいる。
必死に平常心を保とうとしているのが判る。
すぐに追っ手をかけろと言い出すのかと思いきや、意外にも相手の声は静かだった。
「それで、あの人はどんな様子だった・・・?」
普段山南さんと呼ぶ山南先生を『あの人』と呼んだのは、余程気がかりの種であったのか。
言葉にしようとして、最後に見た山南先生の姿がまざまざと瞼によみがえり、再び背筋に寒いものが走るのを感じた。
「・・・尋常ではありませんでした」
結局、言葉が見つからずにそう答えるしかなかったのだが、それは相手にとって必要充分な言葉だったらしく、
「ああ、そうか」
呆然と呟いた後、疲れた顔を片手で覆った。
憔悴しきった様子だった。
副長のそんな追い詰められた様子を見たのは初めてだった。
泣いているのかと思ったほどだ。
「昼前から姿が見えないので探していたところだった」
溜息混じりにそう言い、覆った手で顔を撫で下ろしてしばし。
キセルの雁首を灰吹きにたたきつけて灰を落とし、庭を見やりながら、
「今夜は戻らぬと言ったのか?」
先程から目をそらしたままこちらを見ない。
「はい。沖田先生はそう仰いました。それから、必ず戻る、とも」
「必ず戻る?」
ようやくこちらを見、急き立てるように、
「それはどういうことだ。必ず連れて戻るというのか。自分ひとりで戻るという意味なのか?いつ戻るのだ?」
私にも判らない。
「申しわけ有りません。突然のことでそこまで話せませんでした」
副長が考えている。
というより逡巡している。ためらっている。
右手に持ったキセルの朱塗りの羅宇が、親指で何度もしごかれ、手の脂でテカテカと光った。
「山崎」
ふいに副長が口を開いた。
すぐ横の襖の向こうから返事が返って、ちょっとドキッとした。
「聞いたとおりだ。俺は待とうと思う。局長には俺から話すが、これは緘口令だ」
「承知」
襖を挟んで返事が返る。
「問題は奴らが戻って来る時だ。いい知恵は無いか。下の者の目に触れさせずに収容したい」
この時はまだ、山南先生を無事に連れ戻して何事も無かったように事件を握りつぶす事しか副長の頭の中には無かったのだ。
昼間の沖田さんの様子と、目の前の副長の様子から察するに、山南先生の変調は極内輪では周知のことだったようだ。
いつからの変調かは、私には判らない。
少なくとも、近藤局長が江戸から戻るまではそんな気配は少しも無かった。
だが考えてみれば、江戸からの新入隊士が増えた頃から私はあまり奥向きには入らぬようになっていたし、小夜の襲撃事件の前後から、山南先生は体調を崩したと称してめったに自室から出ることは無くなっていたし。
しかも、居室は副長の隣室。
隔離されていたとは考えられぬか?
副長が見張り役だったとは?
そう考えれば、先程の憔悴した様子もうなずける。
スッと襖が開いて山崎さんが顔を見せた。
山南先生の居室である敷居の向こうにかしこまったまま、
「急ぎ後を追わせましょう。沖田先生がご一緒なら左程遠くにも行かれますまい。街道筋を探させます。今夜か、遅くても明日の晩、暗い中を戻ればなんとかなりましょう」
監察方を動員するような口ぶりに、副長が待ったをかけた。
「悪いが山崎、お前が行ってはくれぬか。事を大きくしたくない」
近頃は監察といえど仕事は探索だけでなく、諸団体との交渉役もこなすようになってきていて、山崎さんもそちらの仕事の比率が大きくなっている。
調査・探索は未だ諸方面に顔の知れていない新しいメンバーを使うことが多い。
組織が大きくなるからには仕方の無い成り行きなのだが、子飼いではない監察方を副長は今ひとつ信用できていないらしい。
だが事情が事情故に、それは察するに余りあった。
自分の短慮を恥じるように、山崎さんはうつむいたまま目を瞬かせた。
「ごもっともです。では早速出立致します」
「待ってください」
名乗りを上げずには居られなかった。
「お手伝いさせてください。私など何の役にも立たないかもしれませんが、それでも独りで探すよりは二人の方が・・・」
どうせ事情を知った身だもの。
するとそこで初めて山崎さんは穏やかに微笑んで、
「私なら大丈夫。沖田先生がついています」
・・・。
時々、ひどく感動することがある。
それ程の信頼関係ってどんな風に結ばれるものなのだろう。
なんの打ち合わせも無く、仕事の成就を確信できるというのは。
男同士というものは。
言葉を失っている私に、彼はにんまりといつもの愛嬌のある笑顔になり、
「あなたは既に大役をこなしたのだ。後はただ、私の仕事を黙って見ていて結構。もっとも、こちらがしくじったら助けて頂くことになるやもしれませんが」
いくら山崎さんの仕事が速いと言っても、その日のうちには事は決着を見ないだろう。
とは思いつつ、気がかりで屯所を離れられなかった。
その夜は、普段から借り受けている屯所の隣の八木家の女中部屋に布団を延べて、着物を着たまま横になった。
もしや、と思ったのだ。
もしやと思い、早い時間に床に着いた。
ひと寝入りして夜中に目覚め、厠に立った時、外の気配に気がついた。
蹄の音がする。
袴を着けて表に出てみると、案の定、坊城通りに面した屯所の通用門の前に馬の姿が揺れている。
だが目を凝らして見て驚いた。
気を失っていると思われる人物、おそらくは山南先生を馬から下ろしているところだったのだ。
馬上から沖田さんが病人を抱え下ろし、下で受け取っているのは山崎さんだ。
夜間、屯所の門は閉じられ、表門には歩哨が立つ。
この時も見張りの隊士は居たはずだが、通用門の動きには気付いていない様子だった。
内側からカンヌキが下りているはずの通用門を誰かが開けて、表の歩哨に気付かれぬよう中へ入ろうとしている。
それにしても、山南先生の状態が気になる。
息を潜めて見ているうちに、山崎さんに抱えられた人物の腰から差料が抜け落ちそうになっているのに気付いた。
無言のまま駆け寄って、こちらに気がついた山崎さんに目で合図をしながら、刀を鞘に納めようとすると、
「幸!?」
馬上の沖田さんの驚いたような声。
「触るな!何をしている。寝所に戻れ」
潜めてはいたが声の鋭さに馬が怯え、一声いなないてしまった。
歩哨が気付いてしまう。
沖田さんが鋭く舌打ちをし、馬の手綱を引いて、
「早く中へ」
歩哨の気を引くため、表玄関に向かう様子。
「幸はん、山南先生の足を頼みます」
言われて、引きずっていた草履履きの足首をつかんだ。
「う・・・っ!」
ゾッとした。
ひんやりと固く強張ったそれは・・・たぶんこれは生きている者のものではない!
息を飲みながら思わず手を離しそうになったのへ、急いでいた山崎さんが力いっぱい引っぱったので、呆ける間も無く転げるように屯所の敷地の中へ。
「幸はん。堪忍や。ちゃんと説明しまっさかい」
山崎さんの声が切羽詰っている。
取り乱している暇はもらえなかった。
通用門のカンヌキを下ろし、すぐ横の長屋に・・・遺体(!)を運び入れる。
頭の中が真っ白だ。
幸いその日は開いていたその部屋に安置するなりへたり込む。
その間、たぶん2分弱。
頭のてっぺんから爪先までいやーな汗でびっしょりだった。
口の中はカラカラだし、何より脱力感がひどい。
肩で息をしながら、手に残った感覚を忘れ去るべく両手をブンブン振っていると、庭に面した雨戸の向こうに足音。
暗闇の中で山崎さんと顔を見合わせた。
入ってきたのは・・・沖田さん。
表で歩哨に馬を預け、そのまま入って来たのだった。
戸口を開けたわずかな灯りで一瞬、その横顔が垣間見えた。
汗でテカった、げっそりと疲れた横顔。
戸口を後ろ手に閉めて、再びの暗闇の中、
「ここへ運び込んだのは見られていません」
「副長へは?」
報告は済んだかということなのだろう。
山崎さんの問いに、座敷に上がって来ながら、
「未だ・・。すいませんが、お願いできますか。私は山南先生についていたいので・・・」
大刀を腰から外し、遺体の枕元に静かに腰を下ろす。
ふわりと、血の匂いがした。
山崎さんの居なくなった後、投げ出していた足を正座に畳み込んで、師の背中を目を凝らして見つめながら、私の頭の中には疑問が渦巻いていた。
どうして、山南先生がこんな形で帰ってきたのか。
なぜ、それを隠すのか。
誰かに襲われたのなら隠す必要は無いはずだ。
無断で行方をくらましたとはいえ、誰かに殺されたのなら、私用で外出中に襲われたとでも言い訳できよう。
皆に隠れて戻るというシナリオは、無事に戻った時の話で、山南総長の変調を公にしたくないからの話で・・・。
遺体で戻ったのなら表玄関から堂々と、すぐにでも下手人を捜索しに出ればいいだけのことではないのか。
なぜ?と問いたい気持ちを本能的に抑え込んでしまうのは、そこに沖田先生の背中が在るからで。
先程の横顔が目に焼き付いているからで。
問うてはいけない、何かがそこに有ったからで。
だんだんと立ち込める血の匂いに息苦しくなってきた頃、目の前のいかり肩がふぅと息をついた。
「私がやったのだ」
あれはいつのことだっけ?
日本ではその妖性ばかりが強調されて妖怪扱いになってしまっているが、と不本意そうにその出典から全て説明してくれたけれど、その時周りに居合わせた者は、またいつもの話と聞き流していた。
だから、それはきっと皆が聞き飽きるほど繰り返された話だったのだと思う。
もちろん、副長も知っていたはずだった。
非番だった沖田さんに連れられて散歩に出た。
先年の火事の焼け跡の残る市街を抜け、木屋町を通り、京の都の玄関口、三条大橋の上、お団子で小腹を埋めながら、王都に出入りする雑踏を眺めていた。
春彼岸だった。
梅は盛りを過ぎ、ちらほら花見の声も聞こえるかという陽気で、人出の多い街中をぶらぶら歩くのは華やいだ気分で楽しかった。
それまでもたまに、こんな風に市中を歩き回ることがあった。
沖田さんが私を連れて歩く時はいつも二人きりだ。
仮に他の隊士も一緒だったら、彼自身、めったなことは喋れない。
相手が私だといつも、仕事のボヤキも上司の悪口も身内の噂話さえ、喋りたいだけ喋っていたっけ。
信用されてはいるのだろうけど、ほとんど「訴え仏」扱いだ。
まぁ他に隊士が居たら私自身気を遣ってしまうと思うので、ありがたいことは確かなんだけど。
散策のルートは、普段巡察している区域の外が多かった。
拘束時間外とはいえ、新選組の幹部が市内を歩き回るのは、仕事の延長と思えなくも無い。
のほほんとぶらついていると見えて、その実、仕事熱心な油断の無い人なのかもしれなかった。
そんなところが私は最初から好きだったし、近頃屯所に居場所が無くなり、入りづらくて顔なじみの人たちと疎遠になりかかっている私を見つけて、散歩に誘ってくれたのもありがたく、師につきあって長距離を踏破するのも苦ではなかった。
頭の上で雲雀の鳴く声がする。
今日は特に暖かい。
橋の上は今まさに京に登って来た旅支度の侍やら大きな荷物を背負った商人、私等と同じような格好の物見遊山の田舎侍、墓参りの女子供、彼岸の花売りの声で溢れかえっている。
三条通りから四条通り近辺の財力のある商家は早くから復興したし、寺町から東側はもともと焼け残ったところなので橋の上から眺める限り先年の大火の爪あとは容易に窺えない。
付近に漂う線香の香りが寺の多さを窺わせる。
我々は橋の上で川風に当たることで、無意識にその匂いから退避しようとしていたのかもしれない。
擬宝珠のある欄干にもたれ、雑踏にちゃちゃを入れながら行儀悪く団子の串を舐めていた沖田さんが、ふいにお喋りをやめた。
聞くともなく聞き流しながら、欄干に登って川面を眺めていた私が振り返ったとき、あんぐりと開いた口からぽろりと、竹串が落ちるのが見えた。
その視線の先に、在ったもの・・・。
白昼夢という言葉があるけれど、まさにこのことではなかったかと、余程後になってから思った。
雑踏を押し分け、悲鳴や怒号を起こしながら騎馬の侍がやって来る。
単騎だ。
だが、およそ人混みの中に入るスピードではない。怪我人が出ても不思議は無いくらいの・・・。
「山南先生・・・!?」
と、判別がついた時には、沖田さんは既に敢然と人並みをかき分けていた。
あっけにとられながらも、その背を追う。
近づくにつれ、その異様さに背筋が薄ら寒くなった。
いや、見た目は至極普通なのだ。
普段、屯所で見かける時の温和な微笑を浮かべ、衣服も別段変わったところは無い。
なので何がどうとは思い当たらないが、埃っぽい春の明るい陽射しの中で、何かたとえようもなく違和感を覚えたのは確かだ。
「山南先生!」
ことさら大きな声で呼ばわったのは、周りにいる人たちの注意を促し、怪我人が出ないようにとの配慮であったかもしれない。
だが、呼ばれた本人は全く反応せず、駆け寄った沖田さんが馬のくつわを取って引き止めるまで何度呼ばれても仮面のような微笑を浮かべたまま、まっすぐ前を見ているだけだった。
まるで、自分の他は周りに誰も居ないかのように。
馬を止められて、一度笑みが消えたように見えた。
のどかな雲雀の鳴き声も、花売りの売り声も、雑踏のざわめきも、無音になったように思えた。
それからゆっくり、こちらを見下ろし、
「沖田君じゃないか」
微笑んだ顔が、尋常ではなかった。
おそらく彼には自分と馬と沖田さんの他は、何も見えていないんじゃないかと思った。
見えていないから、ごった返す往来に馬を疾駆できたのだ。
怖じける私を尻目に、沖田さんがいつもの明るい声で尋ねた。
「どちらへ行かれるんです?」
「江戸へ・・・帰ろうかと思うのだ」
旅支度などしていない。
笠も被らず荷物も持たず羽織も着ずに、足元さえ素足に草履掛けだった。
まるで屯所の居室でくつろいでいるままの姿なのである。
その姿で馬を繰るのが異様なのだと、ようやく判る。
馬は新選組の厩舎から連れ出したのだろう。
さすがに近藤局長の専用馬ではなかったが、総長に命ぜられれば馬方も拒否できずに・・・いや、命ぜられるまま疑問も持たずに馬を出したのだと思う。
行き先を江戸と告げられても、沖田さんは驚いた素振りも見せなかった。
「なるほど、そいつは素敵だ。私もそろそろ帰りたくなっていたところでした。ここはひとつ、一緒に連れて行ってはくれませんかね?」
ゆっくり一呼吸するくらいの間を置いて、山南先生はにっこりと目尻にシワを寄せ、
「そうか」
言ったにもかかわらず、馬を走らせようとする。
惑った馬が足をばたつかせ、どうどう、と引き止めようとする沖田さんの額には汗が浮いている。
「置いていかないでくださいよ。ひどいなぁ、山南さん。お願いしますよ。お供させてくださいったら・・・」
相手の気を引くように喋り続け、揉み合う合間に、後ろで下がって見ていた私に小声で、
「屯所へ・・・いや、土方さんに事情を伝えてくれ。私は今宵のうちには戻れないだろうと」
不安になった。
この悪いものに取り付かれたような、常のものではない山南先生と一緒に居て、ひとりで大丈夫なのか。
「だが必ず戻ると」
不安を払拭してくれるかのようにそう言い、馬が大人しくなった一瞬の隙に後から飛び乗る。
先程までの気の抜けたようなぶらぶら歩きからはかけ離れた運動能力の高さに舌を巻いた。
山南先生の後ろから覆いかぶさるように手綱を取り上げて、馬を鎮めながら、
「くれぐれも他の者には気取られぬように。頼んだぞ」
遠ざかって行く沖田さんの背中が陽炎に揺らぐ。
瞬間、再び人並みと喧騒の只中に押し戻されながら、私は走り出していた。
居てくれれば良いなと願いながら屯所の門を潜る。
門口付近には生憎と知った顔が居なかった。
となれば顔パスは使えない。
「副長に、お取次ぎ願いたいのですが」
もっとも、そんな生意気めいたことは顔見知りが居たとてなかなか出来るものではない。
余程差し迫った用事でもなければ。
「副長は生憎只今来客応接中にてお取次ぎ致しかねます」
返事はつれなかったが、屯所内に居ることは確かなようだ。
今宵は戻れない、と沖田さんは言っていたし、とすればそれほど急ぐことは無いのかもしれない。
「判りました。では待たせていただきます」
迷惑そうな顔をされるのを無視して、大刀を外し、上がり框に腰をかけて小半時、ようやく見知った顔が現れた。
「鬼丸殿ではござらんか。何をしておいでかな?」
山崎さんだ。
武張った物言いは、その拵えに合わせているのだ。
武家姿で羽織まで着込んでいるが、あまりの陽気に噴出す汗を手拭で拭っている。
足元は足袋草履だった。
近頃守備範囲を変えたらしく、こちらの姿を見ることが多い。
「副長待ちです。来客中だそうで・・・」
すると彼は大刀を外し草履を脱ぎながら、ポンと私の肩に手を置き、
「なるほど。それはちょうど良かった。私はその副長に呼ばれたのです。一緒に参りましょう」
私の置かれた状況を察して、そう言ってくれた。
気を遣ってくれたのだ。ありがたい。
だが、
「ごめんなさい。私は副長お独りにお知らせしたいので・・・」
山崎さんは仲間だ。
副長の信頼も厚い。
だが、彼と同席して話していいのかどうかの判断は、まず副長に諮らねば。
それが沖田さんの言いつけだもの。
そんな私の不調法にも、彼は毛ほども気を悪くした様子も見せず、
「判りました。話しておきましょう」
にっこり笑って廊下の奥に消えた。
それから呼ばれるまで5分もかからなかった。
早っ!
山崎さんの気遣いに感謝しながら、廊下を回って副長の居室兼事務室に向かう。
来客というのはおそらく嘘だった。
誰も出て行った様子は無いし、誰にも行き違わない。
副長はきっと局長あたりと話していたのかもしれない。
誰にも行き違わないのに、副長室には山崎さんも居なかった。
「だいぶ嫌われたようだな」
部屋に入るなり言われた。ニヤついている。
正座していた脚を崩し、タバコを吸いつけている。
会議の合間の一服というところか。
「私のような軽輩が副長に会わせろと言うのですから仕方有りません」
大刀を置き、対峙する。
「そうか。まぁ許せ」
応対した部下を責めるつもりは無いらしい。
私もその方が気が楽だが。
茶も出されずに待っていたとでも山崎さんは言ったらしく、お前の分だと目の前の茶を勧められた。
苦笑しながら一口飲むのを待って、
「それで、用向きとは何だ」
私がさして急ぐ素振りも見せないので、彼もそこまで余裕が有ったのかもしれない。
だが、次の一言で、顔色が変わった。
「先刻、山南先生に行き会いました」
彼の驚きようは、くわえていたキセルを落としそうになったぐらい激しいものだった。
一瞬、声も無い。
見開いた目に、開け放った廊下の向こうの明るい庭が写り込んでいる。
この驚きようが、やはり何か訳有りなのだと窺わせた。
「騎馬で三条大橋を下って行くところでした。沖田先生がついて行かれました。今夜は屯所には戻れないそうです」
問われる前に要旨を羅列すると、その間に素早く平常心を取り戻した副長が、核心を突いて来た。
「行き先は?判らんのか」
「山南先生は江戸へ行くと仰っていましたが」
「江戸へ・・・?」
息を飲む。
目が泳いでいる。
必死に平常心を保とうとしているのが判る。
すぐに追っ手をかけろと言い出すのかと思いきや、意外にも相手の声は静かだった。
「それで、あの人はどんな様子だった・・・?」
普段山南さんと呼ぶ山南先生を『あの人』と呼んだのは、余程気がかりの種であったのか。
言葉にしようとして、最後に見た山南先生の姿がまざまざと瞼によみがえり、再び背筋に寒いものが走るのを感じた。
「・・・尋常ではありませんでした」
結局、言葉が見つからずにそう答えるしかなかったのだが、それは相手にとって必要充分な言葉だったらしく、
「ああ、そうか」
呆然と呟いた後、疲れた顔を片手で覆った。
憔悴しきった様子だった。
副長のそんな追い詰められた様子を見たのは初めてだった。
泣いているのかと思ったほどだ。
「昼前から姿が見えないので探していたところだった」
溜息混じりにそう言い、覆った手で顔を撫で下ろしてしばし。
キセルの雁首を灰吹きにたたきつけて灰を落とし、庭を見やりながら、
「今夜は戻らぬと言ったのか?」
先程から目をそらしたままこちらを見ない。
「はい。沖田先生はそう仰いました。それから、必ず戻る、とも」
「必ず戻る?」
ようやくこちらを見、急き立てるように、
「それはどういうことだ。必ず連れて戻るというのか。自分ひとりで戻るという意味なのか?いつ戻るのだ?」
私にも判らない。
「申しわけ有りません。突然のことでそこまで話せませんでした」
副長が考えている。
というより逡巡している。ためらっている。
右手に持ったキセルの朱塗りの羅宇が、親指で何度もしごかれ、手の脂でテカテカと光った。
「山崎」
ふいに副長が口を開いた。
すぐ横の襖の向こうから返事が返って、ちょっとドキッとした。
「聞いたとおりだ。俺は待とうと思う。局長には俺から話すが、これは緘口令だ」
「承知」
襖を挟んで返事が返る。
「問題は奴らが戻って来る時だ。いい知恵は無いか。下の者の目に触れさせずに収容したい」
この時はまだ、山南先生を無事に連れ戻して何事も無かったように事件を握りつぶす事しか副長の頭の中には無かったのだ。
昼間の沖田さんの様子と、目の前の副長の様子から察するに、山南先生の変調は極内輪では周知のことだったようだ。
いつからの変調かは、私には判らない。
少なくとも、近藤局長が江戸から戻るまではそんな気配は少しも無かった。
だが考えてみれば、江戸からの新入隊士が増えた頃から私はあまり奥向きには入らぬようになっていたし、小夜の襲撃事件の前後から、山南先生は体調を崩したと称してめったに自室から出ることは無くなっていたし。
しかも、居室は副長の隣室。
隔離されていたとは考えられぬか?
副長が見張り役だったとは?
そう考えれば、先程の憔悴した様子もうなずける。
スッと襖が開いて山崎さんが顔を見せた。
山南先生の居室である敷居の向こうにかしこまったまま、
「急ぎ後を追わせましょう。沖田先生がご一緒なら左程遠くにも行かれますまい。街道筋を探させます。今夜か、遅くても明日の晩、暗い中を戻ればなんとかなりましょう」
監察方を動員するような口ぶりに、副長が待ったをかけた。
「悪いが山崎、お前が行ってはくれぬか。事を大きくしたくない」
近頃は監察といえど仕事は探索だけでなく、諸団体との交渉役もこなすようになってきていて、山崎さんもそちらの仕事の比率が大きくなっている。
調査・探索は未だ諸方面に顔の知れていない新しいメンバーを使うことが多い。
組織が大きくなるからには仕方の無い成り行きなのだが、子飼いではない監察方を副長は今ひとつ信用できていないらしい。
だが事情が事情故に、それは察するに余りあった。
自分の短慮を恥じるように、山崎さんはうつむいたまま目を瞬かせた。
「ごもっともです。では早速出立致します」
「待ってください」
名乗りを上げずには居られなかった。
「お手伝いさせてください。私など何の役にも立たないかもしれませんが、それでも独りで探すよりは二人の方が・・・」
どうせ事情を知った身だもの。
するとそこで初めて山崎さんは穏やかに微笑んで、
「私なら大丈夫。沖田先生がついています」
・・・。
時々、ひどく感動することがある。
それ程の信頼関係ってどんな風に結ばれるものなのだろう。
なんの打ち合わせも無く、仕事の成就を確信できるというのは。
男同士というものは。
言葉を失っている私に、彼はにんまりといつもの愛嬌のある笑顔になり、
「あなたは既に大役をこなしたのだ。後はただ、私の仕事を黙って見ていて結構。もっとも、こちらがしくじったら助けて頂くことになるやもしれませんが」
いくら山崎さんの仕事が速いと言っても、その日のうちには事は決着を見ないだろう。
とは思いつつ、気がかりで屯所を離れられなかった。
その夜は、普段から借り受けている屯所の隣の八木家の女中部屋に布団を延べて、着物を着たまま横になった。
もしや、と思ったのだ。
もしやと思い、早い時間に床に着いた。
ひと寝入りして夜中に目覚め、厠に立った時、外の気配に気がついた。
蹄の音がする。
袴を着けて表に出てみると、案の定、坊城通りに面した屯所の通用門の前に馬の姿が揺れている。
だが目を凝らして見て驚いた。
気を失っていると思われる人物、おそらくは山南先生を馬から下ろしているところだったのだ。
馬上から沖田さんが病人を抱え下ろし、下で受け取っているのは山崎さんだ。
夜間、屯所の門は閉じられ、表門には歩哨が立つ。
この時も見張りの隊士は居たはずだが、通用門の動きには気付いていない様子だった。
内側からカンヌキが下りているはずの通用門を誰かが開けて、表の歩哨に気付かれぬよう中へ入ろうとしている。
それにしても、山南先生の状態が気になる。
息を潜めて見ているうちに、山崎さんに抱えられた人物の腰から差料が抜け落ちそうになっているのに気付いた。
無言のまま駆け寄って、こちらに気がついた山崎さんに目で合図をしながら、刀を鞘に納めようとすると、
「幸!?」
馬上の沖田さんの驚いたような声。
「触るな!何をしている。寝所に戻れ」
潜めてはいたが声の鋭さに馬が怯え、一声いなないてしまった。
歩哨が気付いてしまう。
沖田さんが鋭く舌打ちをし、馬の手綱を引いて、
「早く中へ」
歩哨の気を引くため、表玄関に向かう様子。
「幸はん、山南先生の足を頼みます」
言われて、引きずっていた草履履きの足首をつかんだ。
「う・・・っ!」
ゾッとした。
ひんやりと固く強張ったそれは・・・たぶんこれは生きている者のものではない!
息を飲みながら思わず手を離しそうになったのへ、急いでいた山崎さんが力いっぱい引っぱったので、呆ける間も無く転げるように屯所の敷地の中へ。
「幸はん。堪忍や。ちゃんと説明しまっさかい」
山崎さんの声が切羽詰っている。
取り乱している暇はもらえなかった。
通用門のカンヌキを下ろし、すぐ横の長屋に・・・遺体(!)を運び入れる。
頭の中が真っ白だ。
幸いその日は開いていたその部屋に安置するなりへたり込む。
その間、たぶん2分弱。
頭のてっぺんから爪先までいやーな汗でびっしょりだった。
口の中はカラカラだし、何より脱力感がひどい。
肩で息をしながら、手に残った感覚を忘れ去るべく両手をブンブン振っていると、庭に面した雨戸の向こうに足音。
暗闇の中で山崎さんと顔を見合わせた。
入ってきたのは・・・沖田さん。
表で歩哨に馬を預け、そのまま入って来たのだった。
戸口を開けたわずかな灯りで一瞬、その横顔が垣間見えた。
汗でテカった、げっそりと疲れた横顔。
戸口を後ろ手に閉めて、再びの暗闇の中、
「ここへ運び込んだのは見られていません」
「副長へは?」
報告は済んだかということなのだろう。
山崎さんの問いに、座敷に上がって来ながら、
「未だ・・。すいませんが、お願いできますか。私は山南先生についていたいので・・・」
大刀を腰から外し、遺体の枕元に静かに腰を下ろす。
ふわりと、血の匂いがした。
山崎さんの居なくなった後、投げ出していた足を正座に畳み込んで、師の背中を目を凝らして見つめながら、私の頭の中には疑問が渦巻いていた。
どうして、山南先生がこんな形で帰ってきたのか。
なぜ、それを隠すのか。
誰かに襲われたのなら隠す必要は無いはずだ。
無断で行方をくらましたとはいえ、誰かに殺されたのなら、私用で外出中に襲われたとでも言い訳できよう。
皆に隠れて戻るというシナリオは、無事に戻った時の話で、山南総長の変調を公にしたくないからの話で・・・。
遺体で戻ったのなら表玄関から堂々と、すぐにでも下手人を捜索しに出ればいいだけのことではないのか。
なぜ?と問いたい気持ちを本能的に抑え込んでしまうのは、そこに沖田先生の背中が在るからで。
先程の横顔が目に焼き付いているからで。
問うてはいけない、何かがそこに有ったからで。
だんだんと立ち込める血の匂いに息苦しくなってきた頃、目の前のいかり肩がふぅと息をついた。
「私がやったのだ」
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